テレビ朝日のテレビドラマスペシャル『スイッチ』を見た。

あるシーンが素晴らしいなぁと思っていたら(前回日記参照)、監督がすでに言及していた。

以下転載。

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「10分くらいの長いワンシーンで、本番中に阿部さんがアイスペールの氷を松さんのグラスに入れようとして上手くいかないというちょっとしたハプニングみたいなことがあって。カットかけようか迷ったんですけど、この2人だったらどう乗り切るか見ていたら、確かにこの2人のキャラクターだったらこうするだろうなという説得力のある動きで乗り切ってくれて。さりげない動作なんで普通に見ていたら自然に見落とすほどにやってのけてるんですけど、その自然さがすごいと思いました。

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そしてぐるぐると考えた。

そもそも「テレビドラマ」の中に【舞台的な要素】を発見して「素晴らしい」と思うのは、どういうことなんだろうか、というかどうなんだろうか。

監督が言うような「この二人だったらこうするだろう」が、役者の中でも前提となっていることが前提、という世界で成り立っているのが「舞台的」なことであるとして、台本以外のハプニングを排除し成り立つ世界が「ドラマ的」ということなんだろうか。

昔からよく言う「映画は監督のもの、ドラマは脚本家のもの、舞台は役者のもの」ということについて、の話になると思う。

(テイクを重ねられる、編集ができるからこそ)「そうならざるを得ない、それを良しとする」としていることに対して、「(それを)超えたなにか」に感動するというのは、なんだか違うような気がするというか、傲慢な気がするというか、なんというか。

引き続き、考えてみたい。


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パン屋さんでサンドイッチを買ったら「よく手を消毒してから食べてくださいね」「暑くなってきたから早めに食べてくださいね、保冷材も入れときますね」などなど、言葉は悪いがクソバカ丁寧に説明を受けた。

「全員にここまで説明するなんて大変だなぁ」と思っていたら、同僚は何も言われなかったとのこと。

「手づかみでばくばく食べそうだったのでは」「子供だと思われたのでは」などと言われたい放題だったが、マジでなんでわたしだけ……。

Tさんにこの話をしたら大爆笑で、その理由も皆目見当がつかなかった。