「群像」に掲載されていた、漆原正貴『催眠と不在証明』が、自分でもびっくりするほどツボだった。
いつもならスルーしそうなタイトルだが、よく行っているカフェに置いてあり、付箋が貼られていたので読んでみたのだった。
何がツボだったのか、とても説明が難しい。
意識不明の友達のお見舞いに行き続けた女の子の言葉に震えてしまった。

好きな人と同じ気持ちになれなかったとき「わたしがもっと可愛かったら」「もっと面倒くさくなかったら」などと憂うことしかしてこなかった。
しかし友達は「サキはしなくていい失恋をした」と言った。
最初は意味が分からなかったが「彼が100パーセント悪い、サキに非がなさすぎる。交通事故みたいなものでしょ。サキがどうだったら付き合ったわけ?どんな女でもダメでしょ」とのことだった。
……なるほど。
わたし以外の人間は、「わたし」に「誰か」を上書きすることが可能だし、「誰でもよかった」と、「わたし」がいなかったことにすることも可能なのだということを、すっぽり忘れてしまうことがある。
「わたしだからダメだった」わけではなく「たまたまわたしだったがダメだった」に近い。

そんなことを考えていたので、上記の『催眠と不在証明』がツボにはまったのかもしれない。
他人の頭の中に自分の「不在を証明」をすることは、「存在を証明」するのと同じくらい難しい。
ただ、彼の中にわたしは「不在」なのだと察することはいくらでもできる。
しかし今回は、それを察することはしないと決めた。
「あなたは不在です」と言われること待っている、わたしという存在証明だ。