最近のこといろいろ。


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康本雅子ダンス公演『全自動煩脳ずいずい図』を見た。
心当たりのある動きと心当たりのない動き、どちらも見たくてわたしはダンスを見る。
たくさんの水が見たいと思って海に行くように、たくさん動く人を見たくて行く。
結果、満ちに満ちに満ち足りた。踊りまくってくれてありがとうありがとうという気持ちが止まらない。
可愛くてエロくて面白い。わたしが目指す全てがあった。
しかし、まだ「技術」を見たいと思ってしまう自分がいることが分かって、その点について考えていかなくてはならないと思う。


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「今の気持ちは?」
「手首を切りたい、ではなく」
「ではなく」
「手首を切って、しっかりと湯船につけたい」
「おぉ、それはそれは……いまからおでん仕込むけど来たら?」
「うん、行く」。
こういう会話が、日々わたしを生かしている(ちなみにわたしは手首ではなくおでん)。


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仕事が忙しい。
いつもは裏にいるが、久しぶりに表に出る機会があった。
ツイッターに「〇〇の人、親切だったしいい匂いがした~!」と書かれていい気分になっていたが、なぜかすぐに消されており、なんでだよ!と声が出た。

 

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久しぶりにTさんに会った。いろいろ勘づかれたのだろう、いつもより乱暴にわたしを抱いた。
首筋、両手両足、腰とお尻をがっつりしっかり噛まれて歯形がついた。
歯形の溝に美味しいイチゴソースが残っているかのように舌先で執拗に舐めなぞられて、わたしは身体をびくびくさせてきゃんきゃん鳴いた。

わけもなく家出したくてたまらない 一人暮らしの部屋にいるのに(枡野浩一
という気持ちが限界まで達したので、都内のちょっといいホテルを予約した。
自分で前髪を切った。おでんのたまごを2つ食べた。乾かないと分かっていて洗濯をした。シャイニングの双子のTシャツを買った。

「いつもと違うところで昼寝をしてみたい」と友人に言われてうちのベッドを開放したことを思い出す。
常々、実家プラス保健室のような部屋にしたいと思っているのだけれど、実家感の圧倒的勝利が続いている。
保健室のような、いつでもシンとしていて、人が集まりやすいような集まりにくいような、オーガニック過ぎない清潔感がある部屋に憧れる。
しかしそもそも築45年以上の古いマンションだし、インテリアセンスもないし物も多い。定期的に全て燃やしたくなる。
雑な買い物は薪を買っているようなものだ、と思って虚しくなるが止まらないものだな。

希死念慮がない人がいると知ったときはたいそう驚いた。
「眠い」みたいな感覚と一緒で、もれなく欲求としてあるものだと思っていたからだ。
しかし世の中には眠気を感じたことのない人もいるはずで、そう考えて納得した。
「死にたい」は「生きたい」なんだよ、なんてはにかみながら言われてもまったくピンと来ない。
「死にたいって言ってるやん」と思うだけだ。

自虐の時代は終わったとしみじみ感じているのに予防線を張ってばかりいる自分はダサいし、毎日死にたいと思っている自分もダサい。
毎日眠気を感じているわたしが、なんだか可哀想に見えるのと同じように。

自殺率の上昇のニュースを見るたびに、首後ろにべったりと血がついているような感覚に襲われている。生きて会いましょうもありだけれど、死んで会いましょう、もありだよねとずっとずっと、思っている。

Oさんと会った。珍しくわたしの仕事が先に終わったのでホテルのラウンジ(超好き)で待つことにした。
Oさんは「まーたサキちゃんはホテルにいる」と誤解を招きそうなことを言いながらやってきた。
「中華かエスニックが食べたい、雑な感じの」というわたしのリクエストで、どちらもメニューにあり、お水はセルフサービス、背もたれがない椅子のお店を選んでくれた。Oさんのチョイスはいつも素晴らしい。気分に寄り添ってくれている感じがすごい。
干し豆腐の和え物、エビのすり身揚げチリソースが美味しかった。

渋谷ミヤシタパーク、原宿キャットストリートから表参道、青山を散歩しまくる。
ミヤシタパークは噂にたがわぬ絶望の城だったが、ラスボス感は薄かった。頑張れば倒せそう、と思った。
どこもかしこも人が少なく、お店もほとんど22時までで、夜お茶を生きるよすがにしているわたしとしては、さみしくて仕方がなかった。
それでも、散歩にちょうど良すぎる気温、突然始まる親と思春期の子どものコント、何も考えずに思ったことをべらべらと口にしても成立する会話、心地よい沈黙、裏路地のコインパーキングでタバコを吸うOさんの格好良さ、「あら可愛い」ときられるシャッター、やっとたどり着いたルノアールで飲んだ薄くて甘いコーヒー、完璧な散歩だった。
「今日は何から何まで欲望を叶えてくれて、どうもありがとう」
「こちらこそ。撮らせてもらった写真、いま見返したけどめちゃくちゃいいわ、どこかに載せてもいい?」
「うち、肖像権フリーの女やさかい」
「大阪人なんだね」。

帰宅してすぐにお風呂に入った。
Oさんが一緒にいないことが不思議でもあったが、これでいいのだ、とも思えた。

 

『テネット』のこと、『催眠と不在証明』のこと、ボタンを押す30秒前から録画が始まるという最新のカメラのことを考えていた。
わたしはこの世に存在するのだろうか、なんて一瞬思うも、家賃、電気ガス水道代、各種欲望の代償金を支払って、物体としての自分を感じざるを得なくなって絶望した。
わたしが存在するように、多分あなたも存在するのだろう。
わたしの存在を認識しないあなたなど存在しなければいいのに。

別部署で関わりはないがいつも面白い企画を出す人がいて、思い切って話しかけた。後日、妻子持ちだと知って、軽くうなだれる。
この年齢になり、いいなと思う人は結婚していることが増えた。
ナチュラルに「なぜわたしを待っていてくれなかったんですか」と聞きそうになって、めちゃくちゃヤバい自分に笑う。
もしわたしが存在していないのなら、すべて説明が付くなぁと思いながら、スフレパンケーキを食べてきっちり太って存在が増す。

「群像」に掲載されていた、漆原正貴『催眠と不在証明』が、自分でもびっくりするほどツボだった。
いつもならスルーしそうなタイトルだが、よく行っているカフェに置いてあり、付箋が貼られていたので読んでみたのだった。
何がツボだったのか、とても説明が難しい。
意識不明の友達のお見舞いに行き続けた女の子の言葉に震えてしまった。

好きな人と同じ気持ちになれなかったとき「わたしがもっと可愛かったら」「もっと面倒くさくなかったら」などと憂うことしかしてこなかった。
しかし友達は「サキはしなくていい失恋をした」と言った。
最初は意味が分からなかったが「彼が100パーセント悪い、サキに非がなさすぎる。交通事故みたいなものでしょ。サキがどうだったら付き合ったわけ?どんな女でもダメでしょ」とのことだった。
……なるほど。
わたし以外の人間は、「わたし」に「誰か」を上書きすることが可能だし、「誰でもよかった」と、「わたし」がいなかったことにすることも可能なのだということを、すっぽり忘れてしまうことがある。
「わたしだからダメだった」わけではなく「たまたまわたしだったがダメだった」に近い。

そんなことを考えていたので、上記の『催眠と不在証明』がツボにはまったのかもしれない。
他人の頭の中に自分の「不在を証明」をすることは、「存在を証明」するのと同じくらい難しい。
ただ、彼の中にわたしは「不在」なのだと察することはいくらでもできる。
しかし今回は、それを察することはしないと決めた。
「あなたは不在です」と言われること待っている、わたしという存在証明だ。